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あの日のこと。

改めて。
あの大震災から5年です。
ちょいと自身の整理をつける意味も込めて、当時の記憶を掘り起こしてみようかと。
ついでに昨今のこの震災の報道について思ったことを少し。

というか過去ログ漁ったら3月の記事の殆どが冬のWF話じゃないですかこの人。

2011年。
その前年にうつ患って入院。1月に退院できまして。2月から就労支援施設(以下作業所)に通所する事に。
まあ、そこでの仕事は単純作業からちと入り組んだものまで様々でして。ここは今でもお世話になってるのですが、それは別の話ということで。
作業所の大テーブル、と言っても簡素なつくりなんですが、で数人で集まって作業をしてました。で、そろそろ作業も終わりの時間ですねーとか愛想無さ気に(当時の自分はまだ環境に慣れてなかった事とか退院したてだった事もあってか、ぶっきらぼうで愛想のない態度を取っていたのでした)会話してたんですが、14時46分、あのとてつもなく大きな揺れが襲ってきまして。大急ぎでテーブルの下に潜りました。何十秒、いや、何分続いたんだろう、そのくらい長く、強い揺れでした。もう作業所の建物ゆがむんじゃないか!?というくらいに。
揺れが収まって、職員さんが「隣の公園に避難して!」と呼びかけて、全員大急ぎで公園に逃げ込みました。体験したことのない地震に一同大慌てで、公園に出てもまだ余震が襲ってくるような感じになりまして(というか実際起きてたんですが)。自分も携帯のワンセグ機能を思い出して、受信できるかどうかわからないままに起動、そこに映ったのは地震の惨状でした。テロップでどうにか視認できた「震度6強」の文字。そんな現実離れしたものがと思うも、ワンセグの映像は変わらず。改めて恐ろしい状況になってきた、そう思わざるを得ませんでした。
30分くらいして、状況が一旦落ち着いてきたと判断した自分は、職員さんに一言挨拶を交わして自宅のあるアパートへ。途中通った交差点の一角で、無残にも崩れ落ちた建物と、そのがれきの直撃を受けてフロントガラスが破損した車を見かけ、二度見してウソだろオイ!?となったのを覚えています。
アパートは無事でした。部屋に戻ると二間ある部屋はどちらも地震の揺れで散らかった、というより倒れまくった状態で。押入れの扉は開いて中身が散乱、台所の米びつは倒れて、置いていた炊飯器やレンジが床に直撃。もう片方の部屋も棚が倒れ、中に飾っていたフィギュアやら書籍やらも散らかり、何よりテレビが台から倒れ、ビデオデッキが裏返っていたという状況で。ビデオデッキはテレビ台の天板の下のスペースに置いてたんですが、これがひっくり返ったということは揺れの勢いでテレビが倒れて、同時にビデオデッキが浮き上がったとしか思えず。とにかく部屋の惨状を見るに、これどうすりゃいいんだよ…と途方に暮れながらも、どうにか倒れていたものを起こして元に戻そうと試みるも、元々の散らかりっぷりに輪をかけた状況に、「…明日でいいや」とさじを投げることに。
テレビをつけようと試みましたが、アンテナ線が外れてしまい、しかもその時はそのトラブルに気付けなかったので、受信できたチャンネルが地元フジ系と日テレ系だったかな、その2局だけで。しかもノイズ雑じり。それでもどうにか映った画面には、ワンセグで見たよりもひどい状況が。大津波が発生し、仙台空港が完全に水没した映像に、衝撃を受けました。仙台空港って海から結構距離あったよね!?と。これ…実家大丈夫か!?と不安になり、携帯から何度も実家に電話しましたが、全く通じず。焦っても仕方ないと心を落ち着かせることに。
そうこうしている内に外も大分暗くなってまいりまして。思い出したら食料が尽きかけてるじゃないか、という事実に気付き、自転車を出して買出しに行こうと外に出たら、また衝撃を受けまして。
北側、明かりが消えてるんです。信号までも。
アパートが幸いライフラインが無事だった事もあって、そこまでの認識はなかったのですが、災害によるここまでの大規模な停電は多分初めてだったと思います。そして行く先々の店が見事に閉まってまして。外食店舗はおろか、コンビにまでも全滅という恐ろしい状況。
…食料、どうするよこれ!?と、がっくりしながら、街中の方に自転車を走らせました。
だけども、状況は殆ど変わらず。街中も信号機が消えて、街灯も消えていて、スーパーまでもがほぼ真っ暗な状況。しかしながら、運よく1軒コンビニが開いてまして。そこで缶詰とそばを確保して帰ったのでした。
帰宅して調べてみたら固定電話も生きてまして。これでどうにかネットにつながるということで、ツイッターの方で生存報告をして、状況を把握することに。公式なニュースサイトやどうにか映ってるテレビから、次々とこの大地震の爪跡が明らかになってきまして。それを知る毎に何かの冗談か?と思いたくて、でも現実に起きていることで、流石に混乱しかけてきましたが、とりあえずどうにかなるんじゃあないかな、と、どうにか踏ん張りを利かせることに。

翌12日。すぐ上の兄が従兄弟と一緒に怒鳴り込んできまして。とりあえず無事だったのを確認すると「母ちゃんも俺も山の方に避難してる。電話!?通じるわけねぇべ!家流さっちゃんだから!」と、半ば逆切れ気味の報告を受けまして。道理で電話通じないわけだわと。同時にあの大津波からよく助かったなと、胸を撫で下ろしまして。あ、逆切れ気味なのは兄の性格的な問題もあったんでしょうが、この状況をまだ飲み込みきれてなかったのもあったのでしょう、という事にしておきます。その後ちゃんと片付けしとけ!とか、NHK見とけ!とか、殆ど文句にしか聞こえない忠告をして帰っていきました。
その後、一番上の兄が駆けつけてきて、「大丈夫か?とりあえず食料持ってきたから、これでどうにかしのげ」と、カップめん3箱とベーコンを差し入れてくれまして。ありがてぇ!さっき来たすぐ上の兄と比べてこの大人な応対!やっぱり頼れる!と、もう後光が射して見えました。とりあえずお互いの無事、そして母の無事を確認したところで一番上の兄とは別れまして。とりあえず当面の食料は確保できたので一息つけるなと思いながら、どうにか部屋を片付けることに。

そんなどうにかなるだろ的な思考をふっ飛ばしてくれたのが、原発事故です。

地震災害はどうにかなるだろうと思えるのですが、原発事故は流石にそうもいかず。ここから目に見えない放射線がどうのこうのという情報が流れ出し、パニックが始まった気がします。原発のお膝元にはいなかったものの、そこから離れた地域に住む知人が幾人かいたのですが、彼らも大丈夫だろうかと不安になりまして。その後携帯の方に知人の一人から連絡が来て、こちらは無事だけど県外に避難する事になったと教えられ、ほっと一安心。一方実家のある地域も危険な状況になるかもしれないという話が持ち上がり、県外へ避難することが決まりまして。その話は電話連絡で教えてもらったので心配することはありませんでしたが。
その後は大体当時の報道のとおりです。放射線の拡散がひどいことになったという情報が伝播したこともあり、住んでる地域でも次第に不安の声が高まってきまして。この辺は大家さんとかからも連絡が入りまして。お互いの無事を確認すると同時に放射線への不安を口にしたりしておりました。
ただ、自分には今住んでいる場所を捨てて県外へ逃げられるだけの力がなく。移動手段は自転車だけ、頼みの鉄道も地震でズタズタになり。さらに先述の兄の下に転がり込もうにもそうもいかず。

…居直るか。

状況を鑑みて思ったのは、これでした。
逃げられないなら、いっそこの地で生きていくしかないだろうね、と。
もう放射線がこようものなら、来るなら来いですよこのやろー!シャーッ!オラーッ!もうこんな感じ。居直ったとたん強くなってくるのも、これはこれでどうかとは思いましたが。或いは、諦めたらそこで終了ですよ的な。

週が明けて14日。作業所のほうも流石に作業を再開できる状況じゃなかったことと、避難している人たちへの差し入れの食事を作る体勢に入ったこともあり、しばらく開店休業状態になりまして。こうなると昼間は街を見て回るか片付けるかくらいしかすることがないわけで。街中を自転車で回ると、倒壊した建物のがれきが道を塞いでいたり、スーパーやコンビニが品物がなくなって「しばらく休業します」の貼紙を出していたりと、ほんの3日前まで普通に生活していた場所が完全にゴーストタウンになってしまって。改めて今回のことの大きさを実感した次第です。

それからしばらくして、近所のスーパーがどうにか品物を仕入れることに成功したらしく、時間を縮小して営業を再開しまして。ここから物流が少しずつ改善されていくのですが、それでも全てのスーパー・コンビニ・外食店が元の営業ペースに戻るには時間を要しました。しかしながら、物流が復活したというのは、それだけでも大きなニュースであり、復活へののろしでもありました。
電気の方も復旧し、街中は震災前の明るさを取り戻していったように思えます。一方で、崩れたままの建物もいくつか残ったままで、希望と爪跡とが同居した状態も続いてました。

原発事故に伴う放射線の話も次第に過激なデマは沈静化していき、避難区域から逃れた地区の方々は少しずつ戻ってきたように思えます。それでも未だ放射線に対する不安は完全に拭いきれていませんが。福島の方では今も夕方のニュースで各地の放射線量を伝え、公園や学校などの施設にはモニタリングポストが設置され、放射線に対する監視の目を緩めていません。そうした姿勢が功を奏したのか、震災前とそれほど変わらぬ毎日が営まれています。ただ汚染水問題や廃炉問題など、福島第一原発に課せられた問題は山積みですが。

海岸地区も未だ復興の兆しを見出すには早すぎる感が強いです。今も整地などで多数の重機が出動し、それが進んでいない場所は大津波の爪跡が残ったままの、荒れた土地が広がったままです。実家のあった場所をぐぐる先生のストリートビューで見ると、撮影されたのは2013年なのですが、まだ復興のふの字に届いたかどうかという状況です(今はこれより良くなってはいると信じたいですが)。ただ海岸地区に住んでいた方が再びこの地に戻ってくるかというと、厳しいのではないかと。自分の身の回りだけを見て結論付けるのも早計ではありますが、母から実家の土地を手放したと報告を受けまして。そりゃああの大津波を見たら戻りたいとは思えないよね、と。
大津波に見舞われた場所の復興は、まだ道半ばですが、確実に前には進んでいる。そんな感じです。

一口に震災から5年、とは言いますが、「もう」5年、よりも、「まだ」5年、なんです。
節目だからとかそんな理由で伝えるのではなく、今復興に進んでいる状況も伝えて欲しい。
最近のニュースを見てるとそんな印象を抱かずにいられないのですよ。爪跡はまだあちこちに残ってるし、それらと闘ってる方々もいる。そうした現状も伝えて欲しいのです。大々的に出なくてもかまいませんで。

…意外とまだ覚えてるもんですな。5年前の震災の日の記憶というのは。
それだけ、強く焼きついているのでしょうけど。

あと、つい最近作業所の方と震災の話をして、この結論にたどり着きました。
「人間って、案外しぶといね。いざとなっても意外と生きてる」
諦めなければ、案外どうとでもなる。そんなことを改めて実感した次第です。

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